2022年9月21日、香港人ジャーナリストKaoruさんを招いての講演会に多くの方がお集まりくださりました。Kaoruさんが写真を示しながら丁寧に現地の状況をお話し下さり、目の前に戦場の光景が広がってくるようでした。
2022年の2月、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まる寸前にウクライナに入国した香港人ジャーナリストのKaoru Ng(クレ・カオル)さんは、「攻撃が始まる前に入って良かった」と最初に語りました。そして、ロシア軍の侵攻と爆撃が深刻化するウクライナ各地で自らが撮影した写真を1枚ずつ示しながら、丁寧に現地の状況をお話し下さいました。遠い戦場の光景がありありと伝わるとともに、心温まるエピソードなども沢山ご紹介頂き、現場からの報告がいかに重要で貴重なものであるかを再認識する機会となりました。Kaoruさんの対談のお相手には、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる分析や解説を幅広く行なってこられた筑波大学の東野篤子教授をお迎えしました。
イベントの数日後には、再びウクライナへと戻られたKaoruさん。安全第一で、順調に取材を進められることを祈るばかりです。写真を研究室でお預かりするので、また展示会などを開催し、現地とつなぎ、オンラインでKaoruさんの報告会なども企画しようと話しています。以下は、Kaoruさんが語ってくれた写真にまつわるエピソードです。
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キーウの街中は、逃げたくてもお金がない人たちで混乱状態だった。街中心部の駅には大勢の人が集まっていて、西行きの電車が無料で乗れるようになっていた。駅の構内も電気が消されて、ロシア軍の攻撃対象にならないようにしていた。
キーウ中心の広場。ロシアの戦車が入って来れないように、サンドバッグを積んでバリケードができている。ほぼ無人の街と化していた。マイダン革命で射殺された人々が記念されている。命を落とした人たちを追悼するプレートとロウソク。民主化の第一歩として国として紀念してきた革命だ。
2022年3月2日。テレビ塔の写真。まずはテレビ塔が攻撃され、4人の市民と記者が犠牲になった。通信手段に影響を与えようとしている証拠だ。銃が配られると、普通の住民が民兵なり、ここを守るようになった。元エンジニアの民兵の写真。
最初の2週間、キエフ市内にはロシアのスパイが多く潜伏していた。ウクライナ人として暮らしていたが、戦争開始でスパイになるよう命令された人たちだ。警察は疑心暗鬼になっていて、最初の頃はキエフ内で銃声が鳴り響いていた。
イルピンは川も湖もあり、お金持ちが一軒家を構えるような場所。その美しい場所が爆撃で一気に破壊されていった。キエフの入り口の橋は、ロシア軍に入られないようにと破壊された。イルピン川に向かってる市民。
人道回廊が設置されても、ロシア軍は後ろから逃げている人を追った。後ろから撃たれた市民。アメリカのNYタイムズの記者も、その辺りのロシア軍のスナイパー塔から撃たれて亡くなった。Kaoruさんも20代くらいの若いロシアの兵士に銃器を突きつけられて捕まりそうになったが、ジャーナリストを名乗って手を挙げたら釈放された。
ロシア人兵士の写真。自分の国がしたことが許せなくて、アゾフ部隊に志願してキーウの入り口の森を守っている。ロシアではネオナチだと悪い評判が流されているが、Kaoruさんの見た彼らは救援活動にも熱心だった。
軍事倉庫全体が燃え上がっている写真。数分前に休憩しようと温かいコーヒーを持って外にタバコを一服しに出た兵士がKaoruさんの隣に。軍事倉庫に4発。同僚たちは死亡し、自らは助かった。タバコのために命を落とした兵士。
大きな建物が燃えている写真。大量の小麦が入った倉庫。UNICEF提供の食料のうち17%はウクライナから。旧ソビエトの建物は壁際にガス配管されている。そこに引火して爆破し大勢の犠牲者が出た。熱くてKaoruさんも取材中に火傷を追った。
野外で煮炊きをせざるを得ない街。お父さんは小川に水を取りに行っている時に爆撃を受けて死亡した。
20頭の牛を飼っているから逃げられないという女の子。
Kaoruさんが見た範囲でも、ブチャでは大量虐殺があったのは確かだ。ロシア軍の侵攻が始まったときはブチャにいた。3月下旬に戻ると、虐殺された市民が黒いバッグに入れられて埋葬されていた。瓦礫に埋もれた小さな子どもの遺体も。暑くなり始めて死体の匂いがキツかった。ウラガンという旧ソビエト時代の性能の悪い爆弾がたくさん使われているという。不発弾のまま路上に残って、夜それに当たって爆発したりする。
ロシア軍も最初は無茶苦茶で、ハイウェイで戦車を潰したりもしていた。
犬が吠えると居場所がばれるという理由で、犬も次々に殺されている。
こんなに辛い毎日の中でも、人々は着実に生活を営み、人間らしいあり方を探っている。
3月終わりに、ようやくキーウ市が解放された。市民がまずやったのは、文化財などの保護だった。
小学校の食堂で弁当を作る人たちがいる。学校は閉鎖されていたので、学校を食料倉庫として、難民や兵士たちに食堂で食事を作っていた。難民は自分でパンを作って配布する。駅のホームには、図書館やいろんなお店が臨時で作られていた。
戦争が始まった日に付き合い始めた自警団に所属するカップル。同じく自警団に所属するロシア人とウクライナ人のカップルもいる。全員まだ健在とのこと。
年老いたウクライナ人女性。ロシア語を教えてきた有名な教授。東京大学でも教えた経験がある。ロシア人とウクライナ人生徒が争うことはないし、憎しみ合う必要はないのだと語った。ロシアのプロパガンダは限定的にしか効果を発揮していない。彼女がKaoruさんに読んでくれたウクライナの有名な詩は、「ウクライナの乙女よ、ロシア人とモスクワで結婚するなかれ」というフレーズだった。仮に話す言語で差別や争いがあっても、それはごく一部だとKaoruさんは言う。
攻撃をあまり受けることのない街には、怪我や病気の治療のためにやってくる人たちが集まる。傷ついた性的被害者もいる。薬や物資、おもちゃなどが次々に届く。出発する時は空だったトラックが、途中で農家が野菜をくれたり、生活物資の寄付があったりして、到着時にはパンパンになっているそうだ。Kaoruさんも4日間乗って移動した。
ウクライナ男性とロシア人女性のカップル。大抵の人は普通に暮らしている、とKaoruさん。子どもには、爆撃のことを「巨人が来た」といっているそうだ。サイレンが鳴ると窓から離れたところに行く「サイレンごっこ」をお母さんが発明し、子どもが夢中になっている。そんなふうにして、戦時の異常事態をなんとか楽しく切り抜けようとしている。Kaoruさん訪問中も、2時間この遊びにつき合わされたそうだ。音楽家の男性は現在、ウクライナのために作曲中。
カメラに笑顔を向ける兵士たち。後方部隊の人たちはあまり積極的にインタビューに応じようとしないが、前線に行く人たちはこれが最後かもしれない、生きて戻れないかもしれないという覚悟があり、笑顔を向けるのだという。カナダから来た義勇兵と出会ったが、Kaoruさんがロンドンに戻った後に、彼が亡くなったことを知った。
前線の郵便局にも荷物が届いている。ウクライナの花なども飾られている。誰もがなんらかの形で兵士たちを応援したいのだ。
ルーマニア国境の街。東京に住んでいたサーシャさんという若い女性。戦争が始まってからは地元に戻ってボランティアをしている。ルーマニアとウクライナの間を運転し、EU圏の人たちが集めた生活用品や薬品、おむつなど受け取ってウクライナに運んでいる。ボランティアは全て女性だ。チェルノブイリ原発事故により、ウクライナ人には甲状腺の薬を飲まなくてはならない人が大勢いる。サーシャさんが東京で集めた募金も薬に使われている。
爆撃で聴覚を失ったおばあさん。
地下鉄の駅。2カ月間くらい地下鉄が止まり、避難センターとして使われていた。
ハルキフの外れの街は毎朝6時に爆撃があった。水も電気も止まったが、倒れた木々を薪として暮らしている。お年寄りのために、動ける人が焚き火で食べ物を作る。
イースター中だったが、パスカルというケーキを食べるパーティに参加した。イースターの日には教会に集まらないように呼びかけられていたが、結局人は集まっていい時間を過ごせた。プーチンも、イースターは平和の日ではないので結局は攻撃をしなかった。
死体置き場の外。室内の冷蔵庫は一杯で外に置くしかない。ハエがたかっている。
ザポリージャという街。世界中から難民センターにおもちゃが届く。多くの死体を見て傷つき、長旅で疲れている子どもたちも、おもちゃをもらうと笑顔になる。
皆何かしら失っているのに、着いた時はみんな笑顔であるのが印象的だそうだ。
満開の桜の写真。瓦礫化した風景のなかで、桜だけはきれいに咲いている。
若い男性は全裸になって、スワスティカの入れ墨はないかロシア軍に念入りにチェックされる。
東部の激戦区の街ドンバス。ドネツクの入り口だ。3人家族の写真。
家で飼っていた6匹の犬と猫は、みんな死んでしまった。家も失くしたと語る女性。
子どもたちが遊ぶ広場にお墓がある。自分が着く前に亡くなった人が埋葬されていると話した男性。
セベロドネツクの人は親ロシア派だから記者たちを嫌がると言われていたがそんなことはなかった、とKaoruさん。
陥落する3週間前。SNSが使えないので、書いたメッセージを娘に渡してほしいとある女性から頼まれた。
攻撃された時の映像。Kaoruさんも現場に居合わせた。取材中に3発くらい撃たれ、水郷にすぐ隠れた。一緒にいた二コラというガイドは神経をやられて、右半身が動かない状態となった。ウクライナの状況を外に伝えてほしいとガイドのボランティアを志願した末のことだった。
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会場にいたKaoruさんの友人のロシア人男性からもお話がありました。現在ロンドンで暮らしている彼は、「自分の国がしたことを許せない」と言い、国際社会の制裁は効いている点について強調しました。例えば、兵器を修理するためには、さまざまなパーツを輸入しなければならず、夜間に使えるカメラはロシア国内では製造できないのが現状だということです。「ロシアに報道の自由はなく、毎日新しい嘘をついている。プロパガンダを信じている人が多数いるが、戦争に反対している人たちもいる。逮捕されるのが怖くて言い出せないが。政治に関心を持とうとしない人もいる。」とロシア人の複雑な心情を代弁するかのように語りました。
最後にKaoruさんから、「武器を取らないでというが、取らなければ平和になるのか?ウクライナの状況はそんなものではない。」というメッセージが訴えられました。
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対談相手の東野篤子氏からも、ウクライナの現状が詳しく解説されました。東野氏はまず、命をかけて取材するKaoruさんの写真を見られたのはとても貴重な体験だと述べました。そして、ブチャやイルピンなども大虐殺で悲惨な経験をしたが、マリウポリと違って戦争犯罪の実態は把握できるのに対し、マリウポリでは実態が分からないことなどについて語りました。
倒壊した建物の中に死体があっても、その上にビルが建設されたりして証拠が残らないため、Kaoruさんの写真はとても貴重であることを強調しました。また、生活のためにロシア派を選ぶ人たちを責めることへの疑問なども問いかけました。そして、現地で起こったことの一部を切り取るメディアが多い中で、現地の人の状況を知ることの必要性を訴えました。
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ヒューマンライツ・ナウの副理事長の伊藤和子弁護士からは、国際法の観点からお話し頂きました。ロシア軍による拷問や虐殺などのニュースが飛び交う中で、戦争犯罪の証拠として細かい調査が必要かもしれないが、まず侵略行為自体が戦争犯罪であることを忘れてはならないと述べました。国際刑事裁判所では戦争は犯罪だということが決められており、司法裁判所では、ジェノサイド罪にあたると認定するために裁判中であることが共有されました。ナチスドイツによるジェノサイド(大量虐殺)と同じことが決して繰り返されてはならず、国連などだけでなく、我々一人一人が許してはいけない問題であること、そして、拷問や核兵器の威嚇も許してはいけないことを強調しました。
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戦争の渦中にいるKaoruさんを含む24人が綴った『ウクライナ戦争日記』。イベント後、本を購入された方々に丁寧にサインをしてくれたKaoruさん。
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